台湾報告その1 海外神社跡編

1/14〜21に連休を戴いて、台湾を旅してきました。
1年間台北で暮らしている友人家族に会いにいくのが目的だったので、はじめは小さな旅のつもりでしたが、十数年ぶりの海外、次はいつ行けるかわからないと思うと欲が出てしまって、いつのまにか計画は膨れ上がり、6泊7日環島の旅となってしまった次第。

初日と最終日の宿だけ予約し、あいだの4泊は、行き当たりばったり。
とはいえ、予約サイト充実していることが目新しく、4泊分は前日にオンラインで翌日の宿をとる、という流れになりました。まぁ現地に着くとサイトに掲載されていないような宿もたくさんあるんだ、ということがわかったのは学びのひとつでした。

旅程はざっとこんな感じでした。

1日目 羽田→松山→台北→(圓山大飯店/台湾神宮跡)→北投温泉泊
2日目 台北→嘉義泊
3日目 嘉義→台南泊
4日目 台南→屏東泊(阿猴神社跡)
5日目 枋寮→《南廻線》→金崙→枋寮→佳冬(佳冬神社跡)→枋寮泊
6日目 枋寮→宜蘭→瑞芳→金瓜石
7日目 金瓜石(金瓜石社跡)→桃園→成田

着いた日と翌日午後までは、友人夫妻のご案内で、台北の主に書店めぐりをしました。そのご報告はまた改めて。

ピンは宿泊地です。

今回は、海外神社跡を訪ねたご報告です。
台湾行きのタイミングがもっと早かったら、まったく思いつかない観点でした。

昨秋開催した編集グループSUREによる連続トークイベントでお話しくださったうちのおひとり、SUREからは2015年に『「大東亜共栄圏」の輪郭をめぐる旅ーー海外神社を撮る』が出版されている写真家・稲宮康人さんとご縁ができました。
ちょうど、稲宮さんが10年かけて撮影してこられた海外神社跡写真の集大成となる『「神国」の残影』が国書刊行会から刊行されるタイミングとも重なり、当店でも10月後半から年末にかけて写真展を開催させていただきました。
そんな流れから毎日「海外神社跡」の写真をみるようになり、海外神社の存在に思いを巡らせるようになりました。

台湾は、1895年から1945年まで、日本により統治されていた時代があるため、大日本帝国が建立した神社の数も多いとのことでしたので、この機会に訪ねてみよう、と思ったのでした。
稲宮さんからは金子展也『台湾神社故地への旅案内』(神社新報社)をお借りしたほか、こちらの地図の存在も教えていただきました。

 

日付順に辿ると、ひとつめは、車窓から見ただけですが、台北から北投温泉へ向かうMRT淡水信義線から、あれだ!と一目でわかる圓山大飯店〈台湾神宮跡〉を確認しました。

 

緑色のイルミネーション向かって右側に橋があります。

次に出会ったのは、屏東でした。客家伝統茶をたっぷり時間をかけて味わったあと、台湾産のコーヒーが飲めるカフェに向かう途中、屏東公園に〈阿緱神社跡〉の石橋を見つけました。こちらは、稲宮さんの写真集の「著者が調査した海外神社跡地一覧」に名前が載っています。ちょうど旧暦の正月を迎える時期で園内は眩いばかりのイルミネーションに彩られ、若いグループがたのしそうに写真を撮ってました。石橋のかかる池も光を反射させていました。

 

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3つめは佳冬神社。駅を降りて、まずは客家の住宅が残る小径を散策したのち、ココナツやバナナの農園、なにかわからない養殖池などを両側に見ながら人通りの少ない道を歩いて神社を目指します。神社跡を目指さなければ、ぜったいに歩くことのなかった道です。
バス通りに出てしばらく歩くと、稲宮さんの写真の通りの鳥居が現れました。小さな石橋もわたり、参道を進みます。沿道の民家では、お正月の準備でしょうか、玄関の上に貼られた赤い横長の紙の文字飾りを脚立にのった男性二人がスクレーパーで剥がしているところでした。ほどなくして着いた社殿基壇に上ってみると、鬱蒼と木々が生い繁っていてます。いかにも南国らしい風情の実がたわわになっていました。あとで調べたところコパラミツという名でした。

帰りもスクレーパーの男性二人は気の遠くなる作業を続けていて、先ほどは離れたところにいたおばあさんが脚立の足元まで来ていて、二人に向かって何か指示を飛ばしているのでした。
これを書く段になり改めて稲宮さんの写真集を開くと、参道の両脇にずらりと並んでいた灯篭の痕跡がいまでも見られたっぽい。残念ながらそれには気づきませんでした。

台東駅あたりの車窓からの眺め

幕末の上野戦争のときに寛永寺門主だった輪王寺宮、のちの北白川宮能久親王は、寛永寺から逃れたあと、めぐりめぐって48歳のときに台湾征討近衛師団長として出征しますが、台南にて落命します。皇族では初めて外地での殉職者となったため、台湾の神社の祭神として名を連ねられていることが多いことは、稲宮さんのトークでも説明されたことですが、実際に台湾をぐるっと鉄道で廻り、車窓から、南へ行くにつれ濃度を増していく風景、神々しく聳える山々が織りなすダイナミックな風景を目の当たりにすることで、やっと史実として感じることができました。
ここまでの3つの神社には、能久親王が祭神として名を連ねていたそうです。

 

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そして最後が、金瓜石社跡。観光メッカあの九份からもバスで10分くらいのところにもかつて神社がありました。

われわれは夕方の便で日本へ帰る最終日の朝、スーツケースを宿に置き、金瓜石の宿から神社跡を目指しました。

鉱山として栄えた過去を伝える黄金博物館の入口近く、視界を割くように現れたのは、「全家(ファミリーマート)」の看板。店先では店員さんが、なにやら巨大な空気人形のようなものを膨らませようとしているところでした。あまりに唐突な光景に立ち止まりそうになるも、我々の目的は神社跡、黄金博物館もパスしてるので前進前進。
いよいよ登りがはじまるその手前には、鉱物を運搬していたトロッコ軌道跡もありました。黄色味が強い足元の土は、前の晩の雨でぬかるんでいるため、滑らないよう集中しつつ、一歩一歩。山道、じゃなくて参道の石段を登る、登る、登る。
ひとつめの鳥居で腰を伸ばして、振り向くと、山と山の間から遥か基隆の方向に海が見えました。絶景。曇天でしたが様々な鳥の清々しい鳴き声が響きます。
後ろから黙々と登ってきた男性が私たちの写真撮影を待ってくださったり、追い越してもらったり。ときどき立ち止まっては、建物がどんどん遠く小さくなるのを確かめながら、ひたすら登る。
ようやく神社跡に着くと、梅のような濃いピンク色の花が迎えてくれました。先ほどわれわれを追い越した男性は戻ってきたところで、お互いこの石段を制覇した者どうし軽く微笑み、男性は「I’m tired.」と呟きくだっていかれました。

入口の大きな鳥居の柱には、昭和拾弍年七月吉日と彫られていました。
その先には柱だけが何本も天に向かって伸びていました。神社跡というよりギリシャ神話か何かの神殿遺跡のようでもありました。

しばらく絶景を眺めながら息を整えているところに、自分たちよりも15歳くらい年上と思われるご夫婦が到着。奧さんに立ち位置など指示しつつ時間をかけて写真撮影しておられました。

金瓜石社は鉱山の持ち主となった日本鉱業が建立、大国主命、猿田彦命、金山彦命が祀られたそう。それにしても、よくもこんな山の中腹に資材を運んだと思うし、稲宮さんも大判カメラと三脚担いでのぼったんだよね、と遠い目で頂きの方へ目をやると、坑道はさらに山の上の方まで続いているのでした。

下りも滑落しないよう慎重に。中盤から膝が笑いはじめましたが、チェックアウトの時間も迫ってきていましたので、ひたすら下る、下る。
行きに通り過ぎた全家(ファミリーマート)の店先には、空気で膨らませたゲートが設置されていて(人形ではなかった)、なんとこの日がオープンだったのです。黄金色のジャケットに赤いスカーフといういで立ちの、恰幅のよい、どこからどう見てもこちらがオーナーだろうな、とわかる紳士を囲んで野外セレモニーの最中でした。みなさんうれしそうな顔でした。

以上がこの旅でわれわれが記憶したこの日の神社跡の風景です。
行く先々で自転車を借りて周るつもりだったので、もう少し出会えたかもしれないのですが、台湾は右側通行、さらに夥しい数のスクーターが走っており、とても流れに乗れそうになかったので断念しました。
海外に建てられた神社には、日本人移民により建てられたものもあるため、すべてが大日本帝国絡みではないですが、すでに営まれている生活に分け入り、「神」を祀り、そして敗戦とともに廃絶、、75年の歳月が過ぎ跡形も無くなってしまったところも多いでしょうが、その過去は胸に刻んでおかなくてはいけません。
機会をくださった稲宮康人さんとSUREのみなさんに感謝。

はじめに戻りますが、こうしてたった数箇所だけ訪れただけで、稲宮さんの写真集『「神国」の残影』(国書刊行会)がいかに大著かを改めて実感しました。さすがに一家に一冊、というわけにはいかないでしょうが、これからの世代の方々にも伝えるため図書館や学校の図書室にもぜひ所蔵していただきたいです。