◾️◾️◾️ 11月21日(木)◾️◾️◾️
午前中松阪市内観光(徒歩)
📍松坂城跡
📍本居宣長記念館、本居宣長旧宅(鈴屋)
📍松阪市立歴史民俗資料館
📍旧長谷川治郎兵衛家
📍pieceピース cafe & store(Hさんと合流一緒にランチ、ここからHさんの車)
📍松阪もめん手織りセンター
↓ (Hさん車)
📍松浦武四郎記念館
↓ (Hさん車)
松阪駅
↓ (JR)
多気駅
↓ (中里さんのお友だちのHさんのお車)
📍sana village
↓ (中里さん車)
多気駅
↓ (JR快速みえ)
名古屋
↓ (東海道新幹線)
東京
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さていよいよ最終日。
山﨑さんの作ってくださった朝ごはんを食べて、あとですぐにピックアップできるように荷物をまとめて出発。
まずは松坂城跡へ。石垣をぐるりと上までのぼると、大きな建物がほとんどない穏やかな町並みが見渡せました。山﨑さんのお宅も見えました。城の敷地内にある本居宣長記念館へ。山﨑さんが松阪へお引っ越なさってから本居宣長に入れ込んでいるのは知っていたのですが、教科書の『古事記伝』を著した人以上のイメージが沸かない。果たして。。
まず驚いたのは、全国から人が集まってくる伊勢という土地に生まれ、この人たちはどこからやってくるのかという興味から人びとの話を聞き、伊能忠敬が地図を作るよりずっと前に、17歳で日本地図を描いてしまった逸話!さらに19歳で、空想都市「端原氏城下絵図」なる理想を詰め込んだ町の地図まで作成してしまうマニアックぶりは、生涯余すところなく隅々までこだわりの人として発揮され続けていたと知り、わたしのなかで宣長さんが急に動き出しました。商家に生まれながら商売はあまり得意とせず、本好きで医学の道に進み、生涯町医者として生計を立て家族を養いながら、絵も描き(よく見る本居像は自画像でした)、字は草書から楷書まで書き分け、記録魔で、古事記の解読に時間を費やし、外見も大事と着物は生地からこだわり、鈴が好きすぎてコレクター、、とにかく自分のスタイルを極めた人であったそう。『古事記伝』は、オープンソーススタイルというのか、自分の思考過程を著すことで、後世の人に引き継ぐ学問のスタイルを創出したことがすごいのだそうです。なるほど〜
本居宣長を見た後は、昨日ぽらんさんに教えていただいた本居宣長記念館に所蔵されているという、3冊だけ発行された『竹内浩三作品集』の複製版、を閲覧。漫画風日記は、反骨的精神を貫きながら、「骨のうたう」の詩とはまたぜんぜん違うユニークさが漂っていて、本人の笑顔の写真も人懐っこく、印象が変わる。記録魔的なところとか、何か本居宣長と共通するものを感じる。遺品も所蔵しているとのことなので、小さくてもいいので竹内浩三の展示も常設してほしいなと切に思う。
記念館を出て、魚町から移築した鈴好きすぎて鈴屋と名づけた本居宣長旧宅を眺める。こじんまりと居心地良さそうな2階の書斎は、一面が全部開放された造りで(窓?)外が見渡せる、ここにもこだわり。。
お城跡をくだりながら、松阪市立歴史民俗資料館へ。建物は、明治44年に建てられた図書館を改装したものだそう。1階では、昨日見た松阪木綿の復習ができました。2階は、小津安二郎松阪記念館になっていて、山﨑さんにすすめられ、佐野史郎ナレーションのビデオを1本視聴。小津安二郎は深川の生まれですが、家は松阪商人の家系で、父親は日本橋に店を構える肥料問屋「湯浅屋」の支配人を務めていた。10歳の時に親の意向で松阪に転居、20歳で上京するまで松阪で過ごします。後に監督した映画では(「東京物語」だったかな?)、松阪へのオマージュとしてセリフの中で松阪を地元の発音で「マッツァカ」と発音させていることなどを知りました。
町におりて、旧長谷川治郎兵衛家へ。松阪木綿を扱うこれまたすごい豪商のお屋敷。台所が広くて天井が高く台湾ドラマ「紫色大稻埕」の老舗お茶屋さんを思い出しました。ガラス戸は当時ものでなみなみしています。奥にはお庭というより庭園。本居宣長や千宗室に学びながらスポンサーとして金銭的な支援もしていたそうです。
築100年以上の米蔵をリノベーションした、piece cafe & storeさんへ。入口側に雑貨、奥にカフェと片側の壁一面の書棚が。
ここでHさんと合流し一緒にランチ。本居宣長、竹内浩三の日記の話から、Hさんの手帳の話に。もう何十年も高橋の定番手帳に予定とメモ的日記をつけ続けていると見せてくださった。小さなイラストも添えられていたり、彩色もされていてすごい!期せずして本居宣長、竹内浩三、Hさんと、3世代にわたる日記に圧倒されることに。
松阪もめん手織りセンターへ。御絲さんで織られた反物、反物で仕立てられた洋服、雑貨類、そして手織りの松阪木綿で仕立てられた洋服など、いろいろ目移りしてしまい汗をかきながら、お財布とも相談して御絲さんの生地を4メートルと端切れセットを購入。
山﨑さんのお宅に戻り、まとめておいた荷物を車に乗せて、松浦武四郎記念館をめざします。Hさんが道中の旧道沿いの妻入町屋の家並みを教えてくださいました。あとから地図で復習してみたところ、市場庄町のあたりだったのかな。維持は大変だろうなぁと思うけれど、格子戸が続く道中はお伊勢参りの賑わいを想起させてくれてとても風情がありました。松浦武四郎生誕地を経由して、松浦武四郎記念館では、山本命館長の解説つきで観せていただくことに。北海道の名付け親とは知っていましたが、アイヌ民族とも親しく交流し、ともに調査し、北海道の地名、地形入り超詳細地図を作成。6回にわたり調査旅行をしたそうですが、それにしても地形や地名の書き込みが凄すぎ。植民地化を前提とする明治政府に対し、アイヌの人たちが幸せになれる政策を打ち出すのが筋だと、必死に進言していた人だったとは知りませんでした。結局任命された地位を突き返し、旅と骨董蒐集の生涯を貫きました。武四郎もまたお伊勢参りの街道沿いの賑わいに、知らない土地への興味を育てられたのでした。最晩年、東京神田五軒町の自邸に、古希を記念し全国から由緒ある木材を集めて造った「一畳敷書斎」(三鷹・国際基督教大学に現存)の復元模型もありました。
Hさんに松阪駅まで車で送っていただき、Hさんとはそこでお別れ。2日間ともご一緒してくださり、自力では辿り着けない情報にも場所にもご案内いただきました。
老の伴を買い忘れたことに気づき慌てて売店へ走るなどしてから、JR乗車。やまさきさん、宮地さんと3人で多気駅へ。駅には、写真家・中里和人さんの同級生の方が迎えにきていてくださり、車で中里さんの、ギャラリーに変身したというご実家「sana village」へ。多気、伊勢、三重にある土地の力を、新しいカタチや表現として出現させた「風景ノ地層ヲ巡ル」というグループ展を開催中。本当に最後の最後まで盛り沢山な旅に。
久しぶりの中里さんと力強い再会の握手を交わし、ギャラリー内をご案内いただく。初訪問だけれど、これまで接してきたの中里さんの表現や会話から、生まれ育った環境から得てきたもの、またそれらを大切にしていると感じることが多く、人が育つ環境(おもに風景や気候、家の造作など)がその人に与える影響について考えることがあったので、都市生まれとしては迷路のように入り組み屋外と室内がグラデーションのように繋がる造りの母屋や、別棟の大きな納屋など、まずその「家」の規模に感嘆してしまいました。そしてその迷宮に、何人もの表現者の作品が展示されたり、祈祷室のような空間や、瞑想の場があったり、なにかものすごいエネルギーが渦巻いていました。偶然にも久しぶりの友人とも再会して、中村由信写真集『海女』を教えてもらう。
あっという間に多気終電の時間になり、バタバタと駅まで中里さんにお送りいただき、やまさきさんとは松阪でお別れ、宮地さんと私は名古屋できしめんを食べて新幹線で帰ってきました。
自分たちにはあり得ない行動力だった3泊4日の旅、おしまい。
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